「The Wolf Of Wall Streetに見る、『虚』が『実』となる事についての考察」でも少し触れたが、あらゆる前提が準備されていないと動かない人って意外と多いなぁと感じる事が多くなった。
例えば、ナンパ。
スイッチバーや相席屋、お店側が「声掛けしてもいいですよ」と言う場を用意して初めて、声掛けができる。こういう人は意外と多い、というか大多数だろう。
ネットでは「質問してもいいですよ」という用意されなきゃ聞いちゃいけないんだと思う人がいる。
でもツイッターにはDMやリプという機能がある。
この世は何か安定した世界であって、何も手の加えようがないと思っている人が一定数いる。
働き出すと良く分かることだが、100%が準備されている世界なんてどこにもない。
民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが。
とはイギリスの元首相ウィンストン・チャーチルの言葉だが、
これをもじって
資本主義は最悪のシステムである。しかし、資本主義以上のシステムは存在しない。
と言う言葉が生まれた程、僕達の生きている世界(社会主義の国にいる人がいたらスルーしてください)は打算の上に成り立っているのだ。
女を落す事一つ取ったって、つたない糸をたぐるようなものだ。
ナンパにおいて勘違いしている人もいるかも知れないが、出会ってアポを取ってゴールするのって、基本、蜘蛛の糸を渡って行くような感覚だよ。
たくさんの女とゴールする為には一本の蜘蛛の糸では弱くて、だからこそ数を追うことによって糸が増やして行く必要があるんだよね。
— Kaz (@12_vagabond) 2018年1月11日
必死に食らいついていく。ストに出た日は、通常の歩行距離3キロぐらいの僕が15キロを越えるほど歩いている(ナンパの巧拙はココでは議論しない)。
確かにPUAメソッドや恋愛工学は、手探り状態や、「なんとなくこうだろうな」と思っていたものが言語化され、共有され腹落ちした事の意味合いは大きい。
但し、それは自分の中の軸ができたという事に過ぎず、「こうすればこう」という単純な話などない。
だから、僕らは「この案件は簡単だな。すぐやれそうだ。」などと思ってはいけない(そう一瞬頭をよぎったとしても、いつも通りの振る舞いをしなければならない)。
理由は一つ、100%の保証などないからだ。
「スト低」がどうだとか「BBAが」と言う場面はもちろんあるが、それでも僕らは必死にならなければいけない(反論は受付ける)。
いくらIOIがでていようが、本当にイケるかどうかの見極めは重要だし、常に暗闇の中にを手探り進むような感覚である。そして目の前に訪れたチャンスに対して、「最後の一押し」が出来るかどうかが非常に重要で、闇の中に垂らされた一本の糸を必死につかんでいく感覚を、いついかなる時も持ってなければならない。
女の子と出会った時から、僕は何回も「最後の一押し」をしている。
「飲もうよ」
「今度ご飯行こうよ」
「ライン教えてよ」
「この後バー行こうよ」
「ホテル行こうよ」
「先っちょだけ」
チャンスの神様の髪は前髪しかない、という話は有名だ。
自分が嫌われるのが怖いという理由で、最後の一押しが出来ない男は、女から豚屑扱いをされる。これは間違いない。相手に恥をかかせるからだ。
彼女たちは、店員の前で服を買おうか迷っている(無意識的には買う事を決めている)精神状態だ。
「お似合いですよ。」
その一言を欲している。
自分が店員になったつもりで、優しく最後の一押しをすればいい。
「ホテル行こうよ」と。
一つだけ注意すべきは、相手が買う事を決めているかどうかをしっかり見極める事だ。欲しくもない服を「お似合いですよ」と言ってもそんなに響かないかも知れない。
全部、「相手が」いてこそ成立する。
「相手が」ほしい言葉や態度を、「相手が」ほしいタイミングで与える。
だから、ゴールが決まる。
— Kaz (@12_vagabond) 2017年8月10日
この見極めさえできれば、きっとそこまで難しいものでもない。しかし、残念ながらこれは実践で身に着けるしかない。
最初の数回は失敗に終わる。ラッキーパンチが当たる場合もあるが、どんな凄腕も最初はショボ腕だ。
◆完璧を捨てる
非モテは常に100%を狙いにいく。1回目でダメならダメ。
でも仕事だって商売だって、運動だって1回目から上手くいくことなんてあり得ない。
それが分かれば、断られることへの恐怖心は薄まるよ。— Kaz (@12_vagabond) 2017年12月28日
これは自分がそうだったから言えることだが、何事も準備した後に動き出しては何もできない。
英語の文法や単語を完璧にしてからでないと外国人と話ができないと思っている人間は要注意かも知れない。
何事もやりながら学ぶのが一番身に付く。当然出来ない事で恥をかく。それを原動力に「そうならないためにどうするか」に着目して集中することが大事なのだ。
あっちもこっちも勉強して、平均を狙うより、強烈な原体験に突き動かされた原動力で一つのことに特化することの集中力と熱量は、自分でも信じられなくなるぐらい強烈なものだ。
これは、例えば情報発信にも同じ事が言える。丁寧かつ完璧であろうとするほど足は重くなる。
僕のツイートを見てほしい、どこが完璧なんだ?
マンコマンコ
— Kaz (@12_vagabond) 2018年1月3日
こんなツイートでも(いや、それ以外にもしてるけどさ)フォローして下さる方は一定数いる。
「何言ってんだ?コイツ。プッ」と思われるような内容でも共感者が増えれば説得力が増す(ちなみにこのツイートには共感者はいない)。
◆有料記事を出している身として
有料記事を出す身として、僕のスタンスを伝えねばならない。
出来るだけ全員の人を完全に満足させるべきだし、そうありたいと思う。だけど、一方でそれは不可能だと言う事も分かっている。
逆に全員が同程度満足したというのであれば、それはなんらかの操作が入っていると考えるのが自然だろう。
例えばプリウスという車が人気だからと言って日本人全員がプリウスに乗ることなどあり得ない。と言う前提は知っておくべき事実である。
もちろん提供者としては、満足度を高める努力というのは必要だ。
そして逆に、全ての人を満足させる自信がないからと言って何もしない。と言うのは選択としては違っていると思う。
「今の自分」から見て「誰か」に対していえる事は何かしらあるはずだからだ。
色んな意見があるし、それこそ健全な世界である。
ツイッターのような自分の裏も表も吐き出している場所だからこそ、そこで繋がれた人とは、強く共感する事がある。
一方で、ディスられたり炎上したりすると、心が抉られるような感覚になる。
が、一度スマホを置いて深呼吸してみれば、現実世界は何も変わっていないことに気づく。
冷静な頭を持ちながら、「先っちょだけ」でもやってみる、言ってみる。その感覚があるかないか、そしてそれを行動に移すか移さないか、その違いだけだ。
初めはそこまでの差はない。が、それがこの先の人生で大いなる変化を生む(少なくとも僕はそう思っている)からこそ、その一言、その一歩には大きな価値があるのだ。
おわり
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